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どこかのだれかのものがたり。
「私に、行かせてください」
少女が名乗り出ると同時に、彼女の周囲はざわつきを発した。 「ふざけるな!」 少女の一回りほど歳を重ねた男が怒号を発した。 「お前に行かせられるわけがないだろう! 大人しくしていろ!」 「行かせてください」 少女はうろたえることなく、凛と言葉を紡いだ。 それは嘆願ではなく、決意の響きを纏っていた。 「お前が行けば、死ぬかもわからないんだぞ!」 「それでも!」 死を以てさえ揺るがない決意を纏って、 「それでも――私が行かなければ、ならないんです」 少女は男を見つめていた。 しばらくの沈黙の後、男が口を開いた。 「……今日、納豆はどれだけ食った」 「三パックです」 「豆乳は」 「五百ミリリットルほど」 「今の状態でも十分危険だというのに、さらにあいつの始末に行こうというのか!?」 少女の答えに、男は怒り肩でスクリーンを指した。 スクリーンに映る豆腐。その数、三丁。 賞味期限は、今日。 「大豆イソフラボンの過剰摂取は月経周期の遅れや子宮内膜増殖症などのリスクを高める――まさか知らないわけではあるまい?」 「承知の上です」 「ならば何故だ!」 「『大豆食品を愛する』――それだけでは理由には、なりませんか?」 彼女の言葉は慈しみに満ちていた。 それは、愛ゆえに。 「それでお前の身体がどうなっても構わないというのか? 食物は人を育むものであり、蝕むものでは断じてない!」 しかし男は食い下がる。 それもまた、愛ゆえに。 「……あなたの指摘はもっともです」 十人十色の愛。その中はきっと、理解されないものもある。 けれども。 「それでも私は、あの子たちを見捨てるわけにはいかないのです」 理解されない愛でも、自身にとっての愛は、そのひとつそれだけしかないのだ。 「ただでさえ豆腐は足が早い……賞味期限を過ぎれば、本当にあの子たちは誰からも愛されない存在に変わる」 愛の形は変えられない。 ましてや他人に諭されるだけのことで、どうして変えることが出来ようか。 「本当に、人を蝕むものになる前に――私が責任を持って、あの子たちを愛します!」 「許可できん!」 男はもう知っている。 少女は止められない。 このままなら彼女は独りで駆け出すだろう。 そう知りながら、彼は突っ撥ねることしかできない。 そう知っているからこそ、 「あなたなら、わかるでしょう……? 私は大豆で、あなたは缶詰だけど、同じ食物を愛するあなたなら、私の気持ちもわかるでしょう!?」 少女の言葉を受け止めることしか出来ない。 「賞味期限切れ寸前の鯖の水煮缶があったら、いてもたってもいられないでしょう? すぐにでも開封して醤油を垂らして、よく煮込まれたしゃくしゃくの骨まで愛してやりたいと思うでしょう!?」 男はその言葉に目を剥いた。 再び沈黙が流れる。 「……ふん」 しばらくして、男は打って変わって穏やかな顔で鼻を鳴らした。 「お前のような若造に、骨の食感を語られるとはな」 男が少女に背を向ける。 「行け」 そのまま、ぼそりと背中越しの少女へ告げた。 「俺はもう知らん、煮るなり焼くなり勝手にしろ」 男はそのまま立ち去り、その際に一言付け足した。 「ついでに言うが、俺は鯖の水煮よりも、秋刀魚の蒲焼派だ」 ざわめき立つ人の中心、少女は目一杯頭を下げ、 「ありがとうございます!」 愛する食材の元へ駆け出した。 純白の直方体は、ただひたすらに美しい。 脆く儚く、今にも崩れてしまいそうな愛らしい子たち。 木綿も絹も、どちらにも長所がある。 気の向くままにそれを愛してやればいい。 鍋があったら、湯豆腐に。 味噌があったら、味噌汁に。 肉があったら、肉豆腐に。 油があったら、揚げだし豆腐に。 豆板醤があったら、麻婆豆腐に。 ただの奴だってかまわない。 そそげるだけの愛を。 食欲という名の、自虐に満ちた、純粋無垢な愛を。 私たちは、繰り返す。 私の人生がどこへ向かおうとも。 きっと、繰り返すのだ。 最上の愛と、惜別と感謝を込めて。 「いただきます――」 幼いころからピアノと楽譜とベッドしかない部屋で育った少年がいました。
彼に許されたプライバシーは、眠ることと考えること、楽譜を読むこと、ピアノを弾くこと、そして痛みが襲ったときの休息だけでした。 彼は朝から晩までピアノを弾きました。ミスタッチはなくなっていました。痛みが襲ってくることもなくなりました。ところどころが黒く変色した白鍵も、彼は弾きこなしました。 彼がひとつの曲を飽きるほど弾いたころ、「誰か」が部屋に訪れ、彼に新しい楽譜を与えました。 そしてまた新たな曲を奏でる、そんな日々が延々と続きました。 ハンマーの打弦回数の桁さえ数え切れなくなったころ、「誰か」が新しい楽譜を与えに訪れることはなくなりました。 彼はそれまでに渡された楽譜の音を繰り返し、それもいつしか飽きました。 負の感情をぶつけながら、彼は鍵盤を押していました。 ふとしたとき、彼は違う鍵盤を押していました。 今までの記憶にない音。どの曲とも違う曲。 彼はいつしかそれに夢中になりました。 楽譜が自分の中から生まれてくることが、なによりも不可思議で楽しい。 彼はそれまで以上に目の前の鍵盤に没頭しました。 いつしか黒となる赤を、あるときは白鍵のところどころに垂らし、またあるときは楽譜の裏面に乗せ、新たな楽譜を描きました。 痛みすらも彼方、彼は音楽を奏でました。 彼が遺した曲は、完璧でした。 歴史に残る大音楽家が遺したそれさえも凌駕するものでした。 しかし、彼が遺した曲は、世界のどこにも遺されていないのです。 彼の音楽は、完璧だったのです。 完璧であるということは、それだけで完結しているということ。 彼の音楽は、聴き手の存在を必要としなかったのです。 彼の曲は自らの内で曲を生み、自らの手で曲を奏でることで完成していたのです。 他の要素の一切を排除した完璧な音楽だったのです。 彼の音楽は、完璧だったのです。
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